17歳新聞
この17歳新聞は新聞局がつくりました。

第5号編集委員

責任者    
第5号編集長 笹田 恵美
顧問教諭代表 横山 学
編集者    
大浅 啓輔 
花井 聖菜 
磯 あかね
山形 生
遊佐 あさひ
山田 真代
木野 冴香
澤山 初音
川鰭 遥
特別記者    
佐々木 祐奈 松田 侑菜  
(バスケットボール部員)
ロゴ制作    
遊佐 あさひ    

取材協力

LEVANGA HOKKAIDO

行事別レポート(高等学校)
簡単なことって難しい
プロにおハナシ聞いちゃいます!おしえてシゴト人 レバンガ北海道所属選手兼理事長 折茂武彦さん

元日本代表であり、現在42歳にして現役プロバスケットボール選手。2011年レバンガ北海道を創設し、選手兼理事長として活躍。小中学生対象の講演会やバスケットボールの指導など、地域貢献にも力を入れている。昨年11月には通算7000得点という偉業を達成。190cmという長身を生かした正確な3ポイントシュートは日本一と称される。現役20年目となるJBL2012−2013シーズンが10月6日にスタートする。

どんな高校生でしたか?
僕は埼玉県出身で、当時は21の部活がインターハイ出場するくらいのスポーツ学校に通い3年間バスケットボールをしていました。スポーツ学校だけあって、どの部活も毎日非常に厳しい練習でした。休みはほとんどなし。そこの保健体育科に所属し、部活ばかりしてました。バスケットボール部員はボウズ頭で、今はかっこよく髪型をボウズにする人もいるけど、当時のボウズといえば、僕たちの他には野球部員か悪いことした生徒くらいだったね(笑)。何でボウズにするかわかる?遊ばせないため(笑)。
指の隙間から髪の毛が出ると、バリカン使って自分で髪を切ってたね。学年が3つ上の兄がいて、兄が卒業した高校に進学しました。兄もバスケットボールをやっていて、勉強もスポーツも優秀で皆勤賞をもらっていた。僕は雨が降っても自転車で50分かけて登校してたんだけど、僕も皆勤賞をもらうために40度の熱があっても学校に行ってました。でも、なんと3年生の最後の家庭学習期間の登校しなければならない日に、まちがっちゃって、10分遅刻してしまったんだ。それで皆勤賞なし。にがい経験でした。
プレーヤーとしては、1年生のときはインターハイ(全国高校総体)に出られず、2年生では出られたけども1回戦負け。3年生では神戸のインターハイでベスト8。その結果、高校生の日本代表に選ばれました。こんな生活だから、彼女とデートだなんて一切なかったし…、ある意味悲惨な高校生活だね。学校自体も厳しく、男女交際は禁止。その当時は先生方も厳しくて…もう、毎日すごかったね。授業中に机を投げられたこともあったよ。
プロの選手になろうと思ったのは、高校生のときからですか?
それが不思議と、そう思わなかったんだ。バスケットボールを始めたのは好きとかではなく、当時はミニバスもなくてサッカーなどをやってました。兄が身長が高かったのがバスケットボールをやり始めたのがきっかけかな。153㎝で中学に入学し、卒業のときは186㎝。兄が中学を卒業したあとすぐに、自分が中学に入学したから、兄の後輩から無理矢理「バスケ部に入れ」って言われ、やり始めたかな。そして、卒業のときは「どうせやるなら強い高校で」と思い、兄が通った高校へ進学しました。

当時はバスケットボールという競技にプロがなく、プロなんて全く考えなかった。でも、インターハイで成績を残し日本代表になったから、たくさんの大学から声をかけてもらい「オレ大学行けるじゃん」なんていうくらいで、バスケットボールの強い日本大学に行き、やっと親元から離れて東京行ける!って感じでした。でも、東京に出てきたとはいってもバスケットボール部は寮生活で、そこは管理人も監督もいないところ。当然4年生のキャプテンが一番偉く、部屋は4人部屋で各学年1人ずつ。1年生は…わかるよね?洗濯から掃除まで全部やらなければならない。「東京へ出たけど、何も変わらないじゃん」ってね。週に2回食事当番が回ってきて、そこで「料理」とか学年の「縦の関係」「横のつながり」っていうのを学んだね。一人がミスしたら…どうなるかわかる?連帯責任っていうの。いろいろあったね。でもたくさん学びましたよ。

大学4年生のインカレ(大学生の一番大きな大会)で全国優勝しMVPに選ばれ、再びいろいろと声がかかり、「またどこかに行けるのか」な~んて思い(笑)、そしてトヨタ自動車に入社したんだ。そこで2年間働きながらバスケットボールをしました。どのチームも「プロ」ではなく、みんな「働きながらのバスケ」でした。当然、僕も社会人としての経験もしながらのバスケでした。もともとバスケをやるためにここに入ったのに「なぜバスケ以外の仕事もしなければならないのか」って思いながら不完全燃焼を感じてた。会社の人と話をして了承を得て、一度会社を辞めたあとにプロではないが「契約選手」としてトヨタ自動車と再契約をしました。その当時トヨタ自動車は弱く、なぜそんなチームを選んだかというと、自分がまず試合に出たかったから。試合に出ないと実績がつかないし、自分が出ることで勝ち上がっていきたかった。そこで優勝するのに9年かかった。最初は何もなく、設備も会社の人の理解も低かった。ひとつひとつ揃えていったという感じ。会社と協力しながら選手を集めていきました。その後は4回優勝して、その頃は日本代表に選ばれて世界選手権にも出ました。自分が36歳になった頃、もうトヨタ自動車は常勝のチームとなりすごい選手が揃うようになってきて、今後を考える時期がありました。
なぜ「レラカムイ」に?
自分の今後を考えていた時期に世界選手権が日本で行われ、4年間日本代表から離れていた自分に当時の代表監督だったジェリコさんから代表復帰の声をかけていただき、もう一度そこでチャレンジしようと思った。自分はどれだけできるのかを試し、できなければもう引退かなと思っていた。世界選手権では全試合スタートとして出場し、2ケタ得点をとることができ「まだできる」と思った。そしてその年に北海道でプロチームの「レラカムイ」ができ、プロになりたいと思い14年間在籍したトヨタ自動車を辞めました。トヨタ自動車は、専用の体育館、クラブハウスやシャワールームなど全部そろっている中、レラカムイに来てみてビックリ。廃校の体育館で練習したり、ウエイト場もなく、遠征先のホテルではベッドも小さく、でもそれが「プロ」なんだなと思いながら頑張ったんだ。

企業チームはリーグであっても企業からお金が出ているが、プロはお客さんからお金をいただいて興行としてバスケットボールをしているわけで、そのお金が活動費となる。3000人の観客の中で試合をすることができるなんて、すごいと思った。観客が3000人なんて、今まではファイナルくらいでしか経験したことがなかったけど、多くの観客の中でバスケができるという何にも変えられない幸せを感じたんだ。今までは「人のためにバスケをした」ということはなく、自分のため。レラカムイは4年間弱いのが続いたのに、それでもたくさんのファンの方は来てくれた。そのとき、「自分のためではなく応援してくれる人たちのためにやらなければならない、勝たなければならない」と思った。このとき初めて自分がプロになれたのかなと感じました。プロ選手になりたいと思っていたが、プロというものが全くわかっていなかった。40歳近くの遅くなって気づいたことだけどね。そのことがわかったというだけで幸せだった。だからこそ、いろいろ苦労があったけれども北海道に来てプロになってよかったと思いました。
プレー中は何を考えていますか?
バスケットボールは、考えてやらないとできない。スポーツは何でもそうでしょうが、考えてやらないと全く意味がないと思う。一番考えていることは「練習で考えていることが試合でできているか」でしょうか。練習で考えていることができなければ試合では全くできないから、練習でしっかりやる。考えながらやっている選手とそうでない選手の違いは、考えない選手は同じミスをすること。そして、何のためにやるのかを考えていなければ、上達も遅い。教えていてもそう思う。自分で考えられる選手は伸びる。人と同じ練習では勝てないと思っている。自分はバスケットボール選手としてはそんなに背が高くないし細いし、そこで勝つためには考えないとならない。今そこで、この場面で何をすべきか、チームのために何ができるかを考えているね。チームプレーだから、自分を殺してもチームのために。「自分が、自分が」というのもいいことだけども、時にそれはマイナスになる。
自分のプレーがうまくいかないときはどう乗り越えますか?
当然、誰でも良いとき・悪いときがある。ネガティブなことは考えちゃダメ。常にポジティブにやるしか方法はない。誰でもミスはするから、それで誰かを責めることはしない。 「吐く」という字は書ける?吐くという字は口に±。「吐く」ことは、口から+(ポジティブ)も出せるが-(ネガティブ)も出せる。-(マイナス)をとれば「叶う」になる。何かを成し遂げるには-(ネガティブ)をとること。辛いことは避けては通れないけど、明るく楽しく、辛くてもみんなで声を出し合って助け合ってプレーしていく。そういうことをやっていけば、「叶う」ことに近づけるし、うまくいくのではないでしょうか。
力が伸びた時期は?
やはり高校時代だね。中学のときは、へなへなでひょろひょろ(笑)。身長は186㎝、でも体重は50㎏台でした。マッチ棒みたいだったけど、持久力は異常にあったんだ。ひたすら走った。高校時代はたくさん自主練をしていた。今は自主練を全くやらない。変な話、シュート打ち込みなどはしない。調子が悪くなればやるくらいかな。高校時代にひたすらやったからかな。シュートは感覚がすべて。感覚は打ち込み。あくまでも持論ですが。だから今(高校時代)が一番大事な時期だよ。
長い競技人生の秘訣は?
どんな選手も競技人生には必ず引退はあると思う。引退には2つのパターンがある。1つはケガ、あとは勝負の世界に疲れて戦うことに気力がなくなる。20年目のシーズンになるが、僕は致命的になるケガが全くなかった。棒に振ったシーズンはなかった。北海道に来て次のシーズンで6年目になるが、この5年間で試合に出なかったのは1回だけ。それも胃腸炎(笑)。歳をとったせいか精神的に疲れちゃったのかな。長くできているのはケガをしないことかな。ケガをするのはいろんなケースがあるけど、だいたいは集中力がなくなったときでしょう。集中力が切れると他のことを考えるよ。人間の集中力はMAX 3時間だけど高校生の練習は長いよね。

僕は正直、長い練習はあまり意味がないと思う。いかに集中させるか。僕は2時間の練習ではバスケットボール以外のことは全く考えない。いかにONとOFFをはっきりできるか。コートに入ったら他のことは一切考えない。コートを出たら違うことを考える。簡単なことが簡単にはできないんだよね。それがケガの予防だと思う。高校時代に捻挫はよくしたけど、大学・社会人になっては全然ケガはなかった。高校は練習時間が長かったからかな(笑)。両親からもらった強い身体があるかもしれないが、ケガには苦しまなかったです。今はいろんなチームで専門の栄養管理をする人がいて、いろんなサプリメントなどもあるけど、僕はそういったものは摂らない。ご飯はしっかり食べる。必要以上なことや特別なことはしない。今の若い選手はそういうのにこだわりすぎているようで、良いものだと全部やろうとするね


正確な3ポイントシュートはいまだ健在


折茂さんの勝負服


元気の源は?
何だろう…。
以前、週1でジンギスカンを食べているという記事を見たことがあるんですが…
はい、今も行っていますね。今は東京にもあるけど、東京では「ジンギスカン食べよう」なんて言わない。当然東京では焼き肉だけど、僕は肉の脂で結構胃がやられてしまう。
ナイーブなのですかね?
そうそう。(笑)でも身体作りのために焼き肉を食べていた。北海道に来てジンギスカン食べて「うまいな~」って思って。ジンギスカンは食べていても翌日、胃がもたれないしおなかを下すこともない。「これはいい!」と思い、シーズン中は週2回くらいは行くね。ヘルシーだし。
料理は得意なんですか?
大学時代にすごい作らされたから、だいたいはできる。残りものなどを使ってもできるよ。でも試合やっていると、作る元気もなくなる。多分神経質なんだろうね。 試合前なんかは「試合の何時間前に起きて、何時間前には食事を終えて…」などと準備をしていく。そのペースでうまくいかないと、イライラすることもある。スポーツ選手は「みんな」といってもいいくらい、これを持っているよ。たとえばイチロー選手は試合前の朝は必ずカレーを食べるとか。これはある種の病気、自分のリズムだよね。僕は28歳で結婚して、今は中2の息子がいるけど、家族とはほとんど一緒に生活していない。こんな人が一緒にいると大変だよね。自分が歯磨きしたいときにされていたら…もうダメ。もう6年間単身赴任の生活だけど、今も自分のコンディションやイメージをしっかりつくりあげて試合に入る。そこまでの準備をしていく。でも、バスケのことは全く考えない。だから試合のことを考えて寝られないってことはない。なんとかなるじゃんみたいに考えて、コートに入った瞬間にスイッチが入るね。
バスケットボールを指導するときに注意していることは?
日本ではバスケットボールはメジャーな競技とはいえず、世界からみれば日本は置いてけぼりをくっちゃった感じがあるけど、何が悪いっていうと、悪い習慣の中で今まで来てしまっていることのように思う。今は小さい子たちをいろんな機会で指導する側にもなっているけど、いい習慣の中でやっている子どもたちがいないように感じる。「うまくやろう、うまくみせよう」というのが子どもたちから伝わってくる。『ミスしても大丈夫』ということをしっかり教えなきゃならないと思う。たとえばドリブルをつくのに「強くやりなさい、顔を上げてボールは見ないで」といっても、ボールを見てしまう。それは、うまくやろうとするから。そうやっているといつまでたってもうまくならない。ミスしてもやることによって、少しずつでもうまくなる。どうしても子どもたちは「習慣」でやってしまう。でも海外は違う。いい習慣、いいシステムで、いい指導者に教育されている。

今はサッカーでそんなシステムができてきているけど。指導者はその年代に応じて「勝たせるバスケ」をしてしまう。勝ちたいし勝たせたいからね。でも本当は違う。その場で教えても「将来その子が通用するようなことを教えていかなければならない」ということを考えるべき。おもしろいことに、今は小学校のミニバスで優勝したメンバーがそのまま強い選手になるかっていうとそうではない。そういう勝つためのことを教えられてきているから。僕はバスケットボールの指導者に教わったのは高校からなんだ。それでもここまで来られたのだから。決して今の指導者を批判している訳ではなくて、ずっと日本がそういうシステムでやってしまっているからであって、変えていかないとならないと思う。
「レバンガ」のネーミングは?「ガンバレ」を逆にしたようですが・・・。
レラカムイ時代から勝てなかったこともあるが、何にしろたくさんの北海道の人たちに応援していただきたい。何があっても「ガンバレ」と。当然、今は環境も含め他のチームと比べたら一番悪いんだけど、そんなことを言い訳にしないで「ガンバレ」だね。 みんなもわかると思うけど、言い訳は簡単。はじめに言い訳しちゃうといくらでもなる。10月からシーズンが始まるけど、負ける要素をあげていけばいっぱいあるよ。環境が悪いだとか、外国人選手だとか、試合に出ているのが42歳だとか、言い訳なんかはいくらでもできる。でも、それをしちゃえば、前に進めない。絶対言い訳をしないし、言い訳を探さない。それが前に進む方法。何にしろ、人のことを言う前に、まずは自分だね。
チームの立ち上げで大変だったことは?
これは全部だね。バスケットボールしかやってきていないんだから。何もかも初めてで、非常に難しかった。でも、なぜこのようにできているかというと、このような先輩(事務局の札幌大谷高校出身の香西さん)やたくさんの人に助けてもらっているから。日々勉強だし、間違ったことをしちゃうこともあるだろうけど、支えてくれる。すごくみんなに感謝している。ここ(北海道総合スポーツクラブ)で働いている人にもファンにもスポンサーにも。今まで日本代表にもなっちゃたりしてさ、そんなに頭を下げることはなかったのに、今は頭を下げることが仕事だもん。

すごくいい勉強をさせてもらっている。人は一人では生きられないし、いろんな人に支えてもらい助けてもらい、その代わりにできることっていうのは「感謝」だと思う。最後に残るのは、お金なんかじゃなく「人」だよ。最後は人。みんなには「助ける人、助ける友だち」になってもらいたい。「助けられる友だちや人」をどれだけつくることができるか、もだね。もしかしたら、その人が将来のパートナーにもなるかもしれないしね。これからたくさんのいろんな人に出会って、世の中にはいいヤツ・どうしようもないヤツなどいろいろいるけど、自分で見極める力をつけること。痛い目にあって経験する、いろんな人と話をする。話をしないと相手がわからない。僕がチームをつくるときにいつもやることは、とにかく話すこと、コミュニケーションを取ることだね。 けんかをしてもずっと話さないと一生仲直りできないよね。どちらかが歩み寄って話をすると必ず解決の道ができる。話すことは大事。
チームを運営する理事長としての目標、選手としての目標は?
選手としては、プロとしてコートに立つ以上は、お金を払って試合を観に来て応援してくれるのだから、結果を残すという責任があります。安易な考えでコートに立つようであれば引退。どんな状況であれ結果を出すようにする。結果が出なければ引退になる。運営する側としては、健全な運営ですね。運営には資金を得ることが必要で、選手に給料を払うためにもいろんな企業をまわって協力をしてもらいにいく。今は2年目で、まだまだ厳しい運営だけど、前向きにとらえてしっかりやっていこうって思っています。
高校生に一言。
人とたくさんのコミュニケーションをとり、物事をポジティブに考えて、夢を叶えてほしいと思います。できれば高校生に戻りたいね。歳をとるのはあっという間だよ。今やりたいことをやって、チャレンジすること。後悔することはつまらない。可能性があるのだから、人生一度きりだから、楽しくチャレンジ。高校のときはこんなことに気づかなかった。毎日「あ~早く一日が終わらないかな~、疲れるな~」なんて思ってたけど、今は時間があっても足りない。もっとチャレンジしたい。だからみんなには失敗してもいいから、何かにチャレンジしてほしい。それは無駄なことにはならない。人生においてプラスになる。今が人生でいい時期。可能性っていうのは「人が決める」ことではなくて「自分で決める」もの。限界は人が決めるものではない。だから、みんなにはがんばってほしいって思うよ。
一般社団法人北海道総合スポーツクラブ 事務局 香西眞希さん(札幌大谷高校バスケットボール部OG)

選手にはマネージャーがついているのですか?
チームマネージャーは一人だけです。スタッフの人数は少ないので、プロ選手ですが選手一人一人にマネージャーがついている訳ではありません。
オフィス内にある「グラフ」は何を表わしているものですか?
レバンガ北海道をサポートするチアダンスチームの人数を表したグラフです。札幌以外にもチームがあり、小学生から大人のお姉さん方までいます。
どんな活動をしているクラブですか?
一般社団法人北海道総合スポーツクラブとは、JBL(ジャパンバスケットボールリーグ) に所属するプロバスケットボールチーム「レバンガ北海道」を運営しています。JBLには全8チームが所属し、その中でプロチームとしては、レバンガ北海道とリンク栃木ブレックスの2チームのみで、他は企業チームです。 今はバスケットボールチームの運営だけですが、今後は北海道のスポーツにおいて、小さい子どもたちの育成にも携わっていきたいと考えています。できれば、ウインタースポーツなどを各競技団体と連携をとりながら進めてみたいですね。
香西さんはどんなお仕事をしていますか?
宿の手配などは旅行会社がやっていますが、事務局としてはそのほかのやりとりをしています。選手の食事面やホテルの大きいベッドなど、細かいところの指示や依頼をしています。チームに帯同して全国各地へ行っているわけではなく、試合の興行(チケットなどの販売)といった仕事もしています。道内の遠征は、運営(興行)関係の仕事があるので一緒に行っています。
仕事のやりがいは?
もう全部です。高校時代は大谷バスケットボール部のマネージャーでした。高校卒業後もクラブチームでマネージャー業をやってました。まさか、好きなバスケットボールが仕事になるとは思ってもいませんでしたから。
気を遣っていることなどはありますか?
選手が試合をする上で、練習場など良い環境を整えてあげたいと思っています。プロチームでありながらメインの体育館はなく、さまざまな体育館で練習をしています。環境の良い体育館ではできていませんね。今はもうなくなった「大谷高校の旧体育館(平成17年に解体)」のような古い体育館でも練習しています。夏は暑く、冬はとっても寒いところです。選手よりも早く行って暖房のスイッチを朝から入れたりもしますね。練習の準備や手配などで気を遣っています。


全道各地からたくさんの人に応援されている

編集後記

おふたりのお話から、社会人としてプロとしての大切な「意識と責任」を学びました。特に折茂さんの「夢を『叶える』ためのお話」は印象深いものでした。
自分を高めチームのことを考え、チャレンジし続ける折茂さん。取材を終えた私たちを見送ってくれるとても優しい方でした。お忙しい中、ありがとうございました。

せんせいずかん

トバアツシ

ブインタビュー

高橋みふゆ

油彩は3年目

小さい頃から絵を描くのが好きだったが、油彩などの本格的な取り組みは大谷に入学してからだという。

描くときのアレコレ

絵を描くときは『集中すること、頭を柔軟にすること』を大事にして、夢のある絵をつくろうと日々作品に取り組んでいる。自分の身長よりも大きなキャンバス(194㎝×130㎝)の作品を1ヶ月半で仕上げたこともある。

全国へ、そして将来へ

「自分の甘さが見えた。」と全国の厳しさを感じたようだ。「絵に関わる仕事がしたい。絵を描き続けたい。」と照れながらも、強い意志を伝えてくれた。